彼岸  父を見送って

『鎌倉ペンクラブ』二月号に、「彼岸」というタイトルで、

昨秋の彼岸に他界した父、小原孝弼のことを書きました。

父の供養のために書いた拙文を転載させていただきます。

  

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駿河梅花文学賞


大中寺は沼津にある古刹。4000坪のお庭は数百株の梅の園です。
大正天皇をはじめ皇室の宮さまがたも遊ばされるそうです。

私と大中寺のご縁は、2002年に、大中寺が主催する「第4回駿河梅花文学賞」を、
思いがけなく私の第二句集『あかり』が受賞したことにはじまりました。
この「駿河梅花文学賞」は、大中寺の住職下山光悦氏と
眞鍋呉夫氏、那珂太郎氏、加島祥造氏、三好豊一郎氏、みなさまの企画と伺っています。
その年に出版された詩・短歌・俳句の刊行物から選者合議推薦により
梅花文学大賞として「駿河梅花文学賞」 の一冊が選ばれます。

さらに英語HAIKU、短詩型文学の子供部門もあり、
公募による「梅花文学賞」の審査も行われ、
授賞式には、大勢の受賞者が大中寺に参集。
子供も大人も受賞者がその受賞作品を朗読披露しました。
格調高い大中寺の本堂の中で、
選者も参加者も各人の詩の世界に浸り、ほのぼのと堪能しました。

白い着物が緊張した私。

選考委員の種村季弘先生、春日井建先生、
眞鍋呉夫先生、那珂太郎先生、笠原淳先生、加島祥造先生はつぎつぎと天上に旅立たれてしまいました。

今もご活躍の高橋順子先生。

師の黒田杏子先生も駆けつけてくださいました。

先生方に託された思いを忘れずに精進してゆかなければならないと、
梅の花に思いをあらたにします。

手袋をはづして拾ふ梅の花  里美 
             (『あかり』)

井崎正治 あそびの時間と小さなかたち

木工作家の井崎正治先生の展示会に伺いました。

拙句集の『森の螢』の表紙に、井崎先生の作品を使わせていただきました。

そのご縁での井崎先生との久々の再会でした。

久々と言っても、二十年ぶりぐらいというご無沙汰です。

井崎先生の作品を二十年ずっと、身近に飾っているから、久々と感じてしまうのかしら。

会場は、銀座の教文館の4階です。

木工作品は、人形、うるし塗りの食器、盆・トレー、椅子、靴べら、額、カード立てなど、素敵な作品ばかりでした。

その作品のすべてから、ほっこりあたたかさが伝わってきます。

そして、この会場で思いがけなく、『森の螢』を教文館が販売してくださることになりました。

この本は、流通ルートに乗らなかったので、一応、レア本ではあります。

教文館には、「ナルニア国」という絵本や児童書の専門店があります。

「ナルニア国」は、わたしの好きな書店で、またしても長居してしまいました。

『ナルニア国」は絵本作家さんたちとウクライナ避難民支援もされています。

店奥の『らんらんランドセル』の原画展もうっとりでした。

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反戦の俳句

『鎌倉ペンクラブ』№27(2022.8)に「反戦の俳句」を寄稿しました。

 

わたしの反戦の俳句が掲載された教科書が、高校生の手元にとどくころ、

ウクライナへの侵攻が始まってしまいました。

やるせなく、反戦の俳句について論じた小文です。

思いがけなく、この教科書の編集部へも、この小文が送られることになりました。

一日も早い停戦を祈ります。

 

反戦の俳句  ―全文ー

  

               

   しばらくは秋蝶仰ぐ爆心地      里美

ふいに白い蝶が青い空に飛びあがった。その残像は、今も私のなかにある。この句は、二十七歳のとき、はじめて訪れた長崎で句帖に書いた。

この句が令和四年度から、高校の国語教科書『新編言語文化』と『精選言語文化』に掲載された。掲載の知らせが来たのは、コロナ禍になる少し前だった。文部科学省の検定前で、出版社から句の掲載を内密にするように頼まれた。

突然の知らせに驚いたのはいうまでもない。第二句集『あかり』に収めた昔の一句なので、拾い上げていただけたことがうれしく、反戦の一句であることにしみじみとした。両親は太平洋戦争で苦労した世代。両親と家族が静かに喜んでくれた。

その束の間のできごとのあとに、新型コロナウイルスが世界にじわじわと広がり始めた。

そのさなか、大学生の息子は仏留学を終えて、欧州を放浪していた。欧州の西から東へ広がるコロナウイルスに追いかけられるように、彼は東へと旅していた。「危ないから早く帰ったら」と彼にメールをすれば、「今、キーウにいる」と返事が来た。地図を見れば、キーウはあのチョルノービリ原発の近くに見えたので不安になった。「今しか行く機会がない」が彼の口癖。イタリアで盗難に合いながらも帰国を躊躇していたが、新型コロナの病状が伝わると、当時欧州ではメジャーな商品でなかったマスクを、ウクライナ人の友人に分けて貰い、ようやく帰国の途についた。

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そのウクライナが、コロナ禍につづき、戦禍にも見舞われるとは。悲しすぎる現実に打ちのめされた。

私は日々、ウクライナに関する専門家の解説に耳目を傾けた。政治、防衛、歴史、外交、さまざまな立場からの解説に、問題の根深さを学んだ。人間の闇の深さにおののきもして。

私の爆心地の一句が記載の教科書が高校生の手元に届く頃、核兵器の脅威が増すことになるとは。やるせなくも、私は解決にほど遠い反戦の俳句を詠み始めていた。

   珈琲も銃も手に取る余寒かな      里美

この侵攻直前にウクライナ住民の女性が防衛のための銃訓練をする映像に、私はまず不安が募っていた。ウクライナ人は珈琲好き。たぶん珈琲を飲んだあとに銃を手に取っている。その冷たいであろう銃の感触が空恐ろしかった。

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俳句はHAIKUとして、世界で親しまれている。

俳句には、ある平和性がある。俳句を詠むために自然を観察すると、自然を愛する心が育くまれ、自然保護を考える。俳句の交流により人々が多様性を認め合い、世界の交流を深めることが、ひいては世界平和につながるというもの。日本から世界へ、平和のメッセージ発信の意味を込めて、俳句のユネスコ無形文化遺産登録推進の活動もある。この俳句の平和性は、私が俳句を愛するよりどころのひとつである。

では、戦争となれば、俳句は無力なのだろうか。

戦禍の長引くウクライナのハルキウの地下壕で避難生活をしているウクライナ人が、SNS上で俳句を発表していることを知った。引用させていただく。

   For the whole evening

   a cricket has been mourning

   victims of the war

                   Vladislava Simonova

戦場に鳴くこおろぎの声に震える。戦禍の現場で詠んだ一句ほど真に迫る作はない。作者の彼女に読者の共感の声が届き、すこしでも彼女をなぐさめられたらと願う。詩歌は、苦しむ者を癒す力がある。

太平洋戦争下の俳人は、悲劇の中から戦争の名句を詠んだ。

   海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

   水脈の果炎天の墓碑を置きて去る    金子兜太

誓子は日本で特攻を悼んで詠んだ。〈木枯〉は特攻兵を暗示している。兜太は戦地のトラック島を去るときを詠んだ。生涯忘れられない景と聴く。

戦争の作品は深淵な悲しみの作となり、さらにその作品から反戦への共感を増やすだろう。つらく切ない反戦の俳句が、未来の平和の種となりますように。何はともあれ、一日も早い停戦を祈るばかりである。

今日は、沖縄慰霊の日。木漏れ日の庭に白い蝶がやってきた。

(『鎌倉ペンクラブ』no.27 2022.8 )

             

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Anti-war HAIKU

                          Satomi Natori (Haiku poet)

For a while

I look up at an autumn butterfly

at the epicenter        

                                 Satomi Natori

A white butterfly suddenly flew up into the blue sky. Its afterimage still remains in my mind. I wrote this haiku in a haiku notebook during my first visit to Nagasaki at the age of 27.

In 2022, this haiku was published in the high school Japanese language textbooks “New Language and Culture” and “Selected Language and Culture.” The notice of its publication came to me shortly before the start of the coronavirus epidemic. It was before the Ministry of Education, Culture, Sports, Science, and Technology (MEXT) had conducted their examination, and the publisher asked me to keep the information of the publication confidential.

Needless to say, I was surprised at the sudden news. The haiku is an old piece that I had included in my second collection “Akari,” so I was happy for its publication and also deeply moved that an anti-war haiku had been chosen. My parents, who were of the generation that struggled in the Pacific War, along with the rest of my family were quietly pleased at the achievement.

After that brief event, the novel coronavirus began to spread slowly around the world.

In the midst of this, my son, a university student, had finished his studies in France and was wandering around Europe. He was traveling eastward as if chased by the coronavirus, which was spreading from west to east across Europe. I texted him, “It’s dangerous, you should come home soon,” to which he replied, “I’m in Kiev right now.” I was worried because Kiev looked so close to the Chernobyl plant on the map. “This is the only chance I have to go there,” is what he always said during his travels. Even though he had suffered theft in Italy, he was still hesitant to return to Japan. However, when word of the new coronary disease spread, he asked a Ukrainian friend to share his masks, which was not a major product in Europe at the time, and finally made his way home.

          *

I was devastated by the sad reality that Ukraine had suffered not only from the corona epidemic but also from the war.

Every day I listened to experts’ commentaries on Ukraine, learning about the depth of the problem from the various perspectives of politics, defense, history, and diplomacy. I was also horrified at how deep the darkness of the human heart could be.

I had no idea that the threat of nuclear weapons would increase by the time high school students received their textbooks containing my haiku about Nagasaki epicenter. Although uneasy, I began to compose anti-war haiku, which were far from being any sort of solution.

Coffee and

a gun in my hand

remaining cold in spring―

                                    Satomi Natori

The images of Ukrainian women training with their guns for defense just before the invasion made me uneasy at first. Ukrainians are coffee lovers and they probably picked up their guns after drinking coffee. The feeling of the gun in hand, which was likely cold, was frightening to imagine.

         *

Haiku is an art form that is popular all over the world.

There is a certain peacefulness in haiku. Observing nature in order to write haiku fosters a love for it, and makes people think about nature conservation. The exchange of haiku helps people to appreciate diversity and deepen global exchange, which in turn leads to world peace. There are also movements to promote the registration of haiku as a UNESCO Intangible Cultural Heritage, with the intent to send a message of peace from Japan to the world. This peaceful nature is one of the reasons why I love haiku so much.

But is haiku powerless when it comes to war?

I have learned that Ukrainians who are living in shelters in the war-torn bunker of Halkiou, Ukraine, are publishing their haiku on social media. To quote an example:

For the whole evening

a cricket has been mourning

victims of the war

                   Vladislava Simonova

Trembling at the sound of a cricket that cries on the battlefield. There is no other piece that strikes the heart more than a poem written at the scene of the ravages of war. I hope that the readers’ feelings of sympathy reach the author and comfort her in some small way. After all, poetry has the power to heal those who suffer.

Haiku poets during the Pacific War also composed famous war poems in the midst of tragedy.

Out to the sea,

no place for wintry wind to return  

                                         Seishi Yamaguchi 

Leave the gravestones of the blazing sun

 to the end of the water vein

                                         Touta Kaneko

Seishi wrote this poem in mourning of suicide attacks in Japan. ”Kogarashi” (translated here as “wintry wind”) alludes to the suicide attackers. Touta wrote this poem when he was leaving the battlefield, Truk Island. It is said to be a scene that he will never forget.

These war poems are works of profound sadness, and they will further increase sympathy for the anti-war movement. May these painful and sad anti-war haiku be the seeds of peace for the future. All we can do for now is pray for a ceasefire as soon as possible.

Today is Okinawa Memorial Day. Through the trees, a white butterfly came to my garden.

         『Kamakura Pen club』NO.27 August 25 ,2022

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「こんにちは、俳句」オンライン句会 

朝日カルチャーセンターの横浜教室で、「こんにちは、俳句」オンライン句会を開いています。

投句は、オンラインで行い、選句は句会の前日に各自で。オンライン上の句会は、みなさまの披講もわたしの選評も、みなさまの意見交換も和気あいあいと、すすみます。みなさまの疑問点も、その場で解決。俳句の世界を一歩一歩深めてゆきます。

佳句ぞろいの句会は刺激的です。

https://www.asahiculture.jp/course/yokohama/6b02f525-a14f-f61c-9f9d-639aca10ed9e

『未来へつなぐ想い わたしたちの大磯の歴史』

この書籍は、風光明媚な大磯のゆたかな歴史や文化を、解説、エッセイ、写真をふんだんに使い、つぶさに紹介されている豪華版。

さながら大磯の百科事典のようにずっしりと美しい本です。

この本は、大磯町が発行し、大磯町の学生たちに配布されます。

この本の購入希望者が、配布前から殺到し、

大磯城山公園内の大磯郷土資料館で販売されるそうです。

 

 

わたしは「鴫立庵まで」というエッセイを寄稿しました。

ご存じのように、鴫立庵は三大俳諧道場のひとつ。茅葺き屋根の趣深いお座敷とたくさんの句碑がお庭にあります。

大磯の鴫立庵を訪ね、わたしは、いろいろな気づきに恵まれました。

   

 

鎌倉ペンクラブ・サロン

秋には、あふれるように秋明菊が揺れていた浄智寺です。

2022年12月13日に、北鎌倉の浄智寺の書院で、鎌倉ペンクラブ・サロンが開かれ、

ゲストとして「俳句手帖を携えて」という話をしました。

一時間ほど、わたしの俳句修行の話から俳句の未来までお話しました。

 

 

プロジェクターを使って、途中、パソコンがスリープしてしまい、焦りました。。。 

浄智寺のお庭を一望する書院に机と椅子を並べる今日は、ぐるりと、はりめぐらした障子があたたかく。

わたしは友人に話を向けつつ、語りつづけました。

さいごに、作家の森詠先生、森千春先生、文人画家の西松凌波先生、エッセイストの西内俊秀先生、画家の藤田みどり先生、編集者の石川洋一先生、東大名誉教授の草光俊雄先生、浄智寺の朝比奈惠温住職はじめ、みなさまからのご意見がありがたく、ほのぼのこころに沁みました。

コロナ禍でご無沙汰していた友人、俳句仲間との再会もうれしい限り。「安西篤子は私の叔母なの」という旧友にびっくりもしました。

年の瀬のお忙しいときにお集まりいただいたみなさまに心より御礼を申し上げます。

 

 

初日

初日を毎年拝しています。

今年の人出はいつもより、にぎやかでした。

あかるい方向へ向かう一年になりますように。

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元旦から作り始めた新しいブログです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。