駿河梅花文学賞


大中寺は沼津にある古刹。4000坪のお庭は数百株の梅の園です。
大正天皇をはじめ皇室の宮さまがたも遊ばされるそうです。

私と大中寺のご縁は、2002年に、大中寺が主催する「第4回駿河梅花文学賞」を、
思いがけなく私の第二句集『あかり』が受賞したことにはじまりました。
この「駿河梅花文学賞」は、大中寺の住職下山光悦氏と
眞鍋呉夫氏、那珂太郎氏、加島祥造氏、三好豊一郎氏、みなさまの企画と伺っています。
その年に出版された詩・短歌・俳句の刊行物から選者合議推薦により
梅花文学大賞として「駿河梅花文学賞」 の一冊が選ばれます。

さらに英語HAIKU、短詩型文学の子供部門もあり、
公募による「梅花文学賞」の審査も行われ、
授賞式には、大勢の受賞者が大中寺に参集。
子供も大人も受賞者がその受賞作品を朗読披露しました。
格調高い大中寺の本堂の中で、
選者も参加者も各人の詩の世界に浸り、ほのぼのと堪能しました。

錚々たる先生方に囲まれて、白い着物が緊張した私。

司会の下山光悦住職。

前列左から、眞鍋呉夫先生、春日井建先生、わたし、高橋順子先生。

後列左から、伊藤桂一先生、黒田杏子先生、笠原淳先生、那珂太郎先生、種村季弘先生。

選考委員の種村季弘先生、春日井建先生、
眞鍋呉夫先生、那珂太郎先生、笠原淳先生、加島祥造先生はつぎつぎと天上に旅立たれてしまいました。

今もご活躍の高橋順子先生。

師の黒田杏子先生も駆けつけてくださいました。

先生方に託された思いを忘れずに精進してゆかなければならないと、
梅の花に思いをあらたにします。

手袋をはづして拾ふ梅の花  里美 
             (『あかり』)

☆…

反戦の俳句

『鎌倉ペンクラブ』№27(2022.8)に「反戦の俳句」を寄稿しました。

 

わたしの反戦の俳句が掲載された教科書が、高校生の手元にとどくころ、

ウクライナへの侵攻が始まってしまいました。

やるせなく、反戦の俳句について論じた小文です。

思いがけなく、この教科書の編集部へも、この小文が送られることになりました。

一日も早い停戦を祈ります。

 

反戦の俳句  ―全文ー

  

               

   しばらくは秋蝶仰ぐ爆心地      里美

ふいに白い蝶が青い空に飛びあがった。その残像は、今も私のなかにある。この句は、二十七歳のとき、はじめて訪れた長崎で句帖に書いた。

この句が令和四年度から、高校の国語教科書『新編言語文化』と『精選言語文化』に掲載された。掲載の知らせが来たのは、コロナ禍になる少し前だった。文部科学省の検定前で、出版社から句の掲載を内密にするように頼まれた。

突然の知らせに驚いたのはいうまでもない。第二句集『あかり』に収めた昔の一句なので、拾い上げていただけたことがうれしく、反戦の一句であることにしみじみとした。両親は太平洋戦争で苦労した世代。両親と家族が静かに喜んでくれた。

その束の間のできごとのあとに、新型コロナウイルスが世界にじわじわと広がり始めた。

そのさなか、大学生の息子は仏留学を終えて、欧州を放浪していた。欧州の西から東へ広がるコロナウイルスに追いかけられるように、彼は東へと旅していた。「危ないから早く帰ったら」と彼にメールをすれば、「今、キーウにいる」と返事が来た。地図を見れば、キーウはあのチョルノービリ原発の近くに見えたので不安になった。「今しか行く機会がない」が彼の口癖。イタリアで盗難に合いながらも帰国を躊躇していたが、新型コロナの病状が伝わると、当時欧州ではメジャーな商品でなかったマスクを、ウクライナ人の友人に分けて貰い、ようやく帰国の途についた。

   *

そのウクライナが、コロナ禍につづき、戦禍にも見舞われるとは。悲しすぎる現実に打ちのめされた。

私は日々、ウクライナに関する専門家の解説に耳目を傾けた。政治、防衛、歴史、外交、さまざまな立場からの解説に、問題の根深さを学んだ。人間の闇の深さにおののきもして。

私の爆心地の一句が記載の教科書が高校生の手元に届く頃、核兵器の脅威が増すことになるとは。やるせなくも、私は解決にほど遠い反戦の俳句を詠み始めていた。

   珈琲も銃も手に取る余寒かな      里美

この侵攻直前にウクライナ住民の女性が防衛のための銃訓練をする映像に、私はまず不安が募っていた。ウクライナ人は珈琲好き。たぶん珈琲を飲んだあとに銃を手に取っている。その冷たいであろう銃の感触が空恐ろしかった。

 *

俳句はHAIKUとして、世界で親しまれている。

俳句には、ある平和性がある。俳句を詠むために自然を観察すると、自然を愛する心が育くまれ、自然保護を考える。俳句の交流により人々が多様性を認め合い、世界の交流を深めることが、ひいては世界平和につながるというもの。日本から世界へ、平和のメッセージ発信の意味を込めて、俳句のユネスコ無形文化遺産登録推進の活動もある。この俳句の平和性は、私が俳句を愛するよりどころのひとつである。

では、戦争となれば、俳句は無力なのだろうか。

戦禍の長引くウクライナのハルキウの地下壕で避難生活をしているウクライナ人が、SNS上で俳句を発表していることを知った。引用させていただく。

   For the whole evening

   a cricket has been mourning

   victims of the war

                   Vladislava Simonova

戦場に鳴くこおろぎの声に震える。戦禍の現場で詠んだ一句ほど真に迫る作はない。作者の彼女に読者の共感の声が届き、すこしでも彼女をなぐさめられたらと願う。詩歌は、苦しむ者を癒す力がある。

太平洋戦争下の俳人は、悲劇の中から戦争の名句を詠んだ。

   海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

   水脈の果炎天の墓碑を置きて去る    金子兜太

誓子は日本で特攻を悼んで詠んだ。〈木枯〉は特攻兵を暗示している。兜太は戦地のトラック島を去るときを詠んだ。生涯忘れられない景と聴く。

戦争の作品は深淵な悲しみの作となり、さらにその作品から反戦への共感を増やすだろう。つらく切ない反戦の俳句が、未来の平和の種となりますように。何はともあれ、一日も早い停戦を祈るばかりである。

今日は、沖縄慰霊の日。木漏れ日の庭に白い蝶がやってきた。

(『鎌倉ペンクラブ』no.27 2022.8 )

             

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Anti-war HAIKU

                          Satomi Natori (Haiku poet)

For a while

I look up at an autumn butterfly

at the epicenter        

                                 Satomi Natori

A white butterfly suddenly flew up into the blue sky. Its afterimage still remains in my mind. I wrote this haiku in a haiku notebook during my first visit to Nagasaki at the age of 27.

In 2022, this haiku was published in the high school Japanese language textbooks “New Language and Culture” and “Selected Language and Culture.” The notice of its publication came to me shortly before the start of the coronavirus epidemic. It was before the Ministry of …

『未来へつなぐ想い わたしたちの大磯の歴史』

この書籍は、風光明媚な大磯のゆたかな歴史や文化を、解説、エッセイ、写真をふんだんに使い、つぶさに紹介されている豪華版。

さながら大磯の百科事典のようにずっしりと美しい本です。

この本は、大磯町が発行し、大磯町の学生たちに配布されます。

この本の購入希望者が、配布前から殺到し、

大磯城山公園内の大磯郷土資料館で販売されるそうです。

 

 

わたしは「鴫立庵まで」というエッセイを寄稿しました。

ご存じのように、鴫立庵は三大俳諧道場のひとつ。茅葺き屋根の趣深いお座敷とたくさんの句碑がお庭にあります。

大磯の鴫立庵を訪ね、わたしは、いろいろな気づきに恵まれました。

   

 

初日

初日を毎年拝しています。

今年の人出はいつもより、にぎやかでした。

あかるい方向へ向かう一年になりますように。

      *

元旦から作り始めた新しいブログです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

わが家の山桜

わが家の濡縁の端に一本の山桜がある。鳥が実を運んだのか、自生した実生の桜である。狭庭の光を求めるように、するすると伸びた幼木は、庭の真ん中に奔放に枝をひろげる若木となった。ただ、かなしいことに、肝心の桜が咲かなかった。冬芽があらわれると、桜の蕾かと毎年期待するのだけれど、若葉が茂るばかり。いつまでも葉を楽しむだけの桜だった。

 ひかりそむ櫻紅葉や朝ごはん   里美『森の螢』

訪ねて来た義父が「家に近すぎるな」とこの桜に驚いていた。桜の根が家の基礎を押しているかもしれないという。桜は青々とリビングの窓を隠すように茂り、近所からの目隠しになり、私にはありがたい木となった。

あるとき、この桜のむこうから、子供を叱る若いお母さんの声がした。どきりとする。私にもそんなことがあったと思い出す。姉妹育ちの私には、男の子は未知なる存在で、反抗期に入った息子には戸惑った。私の悪戦苦闘をこの桜は聴いていたにちがいない。

ようやくその桜に花が咲いたのは、枝が二階に届くほどに生長し、息子が大学に合格した三月だった。白々と大ぶりな花びらの桜が二輪、ささやかな祝福のようにひらいた。樹齢十三年で、花を咲かせたのだ。この桜はまばらな花と同時に若葉もひらく、山桜だとわかった。以来、花の数は少しずつ増している。

この山桜の花のかたちから、山桜のルーツが推測できた。近くの里山の山桜に類似の桜花を見つけた。幹が根元で枝分かれしている姿も似ていた。きっとこの木の子孫ではと仰いだ。

その里山の桜も年々生長し、遠目に見ると、小さな花の山になる。樹齢百年といわれる桜の大樹もある。大卒で就職する息子が家を出る前日、私は彼とその桜大樹を見上げた。彼には言えなかったけれど、この大樹の桜のように逞しい未来をと祈っていた。

 初出勤実生の櫻ひらきけり    里美『森の螢』


       

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停戦と眠り

しとしと雨の日が続く。まさに菜種梅雨。
つきあたりの畑に二列の菜の花。黄色がこころをぽっと明るくしてくれる。
雨がやんで、
青空がひろがると、
菜の花の黄色は、ウクライナ国旗の黄色となり、途端に悲しい色となる。

1870年の普仏戦争で、首都防衛戦に加わったマネは、「Civil War」という題名のデッサンを描いた。メトロポリタン美術館に所蔵される。

戦争に色を重ねることは、マネにとって、拒絶したいこと、
許しがたいことだったのだろう。怒りと悲しみのモノクロームである。

一刻も早く、停戦になり、誰もが、枕にゆったりと安眠できる日をと祈る日々がつづく。

 
  停戦の禱りをけふも菜種梅雨  里美

  菜種梅雨モノクロームの戦争画

  月おぼろ戦争おぼろ人おぼろ

           
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「停戦」と題して、『俳壇』5月号に六句寄稿した。

「眠り」をテーマに『NHK俳句』5月号にエッセイと十五句の鑑賞文を寄稿した。

        
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わたしの一句が教科書に

新学期。手にした、新しく、ぴーんと張りつめた国語の教科書をひらいて、わくわくして読んだ昔。

その学年年齢にふさわしい作品が選ばれているからだろう。どの作品からも、文学のエッセンスがふわふわ漂ってきて、幼いながらにうっとりと読んだ。

教科書の日本の文学に触れつつ、学びつつ、子供の心に、日本人としてのアイデンティティが自ずと形成されていったような気がする。

 しばらくは秋蝶仰ぐ爆心地     名取里美

この一句が、高等学校の国語教科書『精選言語文化』と『新編言語文化』に掲載された。令和4年から使用する教科書である。

ほんとうにびっくり、掲載は面映ゆい。

27歳のとき、はじめて訪れた長崎で詠んだ一句だった。清々しい青空がひろがる長崎の街を歩いた。

この句を句集『あかり』に掲載したのが、2000年。

2022年の1月末の今や、ウクライナで緊張が高まっている。恐ろしいほどに兵器が進歩した現在である。

小さな島国の一市民の私は、ただただ、外交による平和をねがうばかりである。つつましく俳句のこころの花火を上げるばかりである。

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月を仰ぐ

ささやかな人生の或る時を俳句に詠む。俳句に詠んだおかげで、その或る時が、後々、映画のように私には甦ってくる。

月を仰いだ私の或る時を辿ってみる。

  照る月の胎児に腹を蹴られけり  『あかり』

流産、早産の危機を乗り越えたときに詠んだ句。月を詠もうと庭で月を仰いでいるとき、膨らんだお腹を胎児にぽんと蹴られた。

胎児は月光を感じるのだろうか。出産はやはり満月の日だった。その子も無事生まれれば、

  庭先の子供は月を見て飽かず   『あかり』

幼い目にも、月の光は不思議に見えたのであろう。いつまでも月を見上げる二歳児に。

  父母の十六夜の手をひく子かな   『あかり』

私は句会があると、子供を実家に預けて出かけた。

十六夜も上がり、子供を迎えに行くと、子供がわたしたち夫婦の手を早く帰ろうと云わんばかりに引っ張った。幼心の寂しさを感じた。

時は飛んで、私も働き盛りの中年になれば、

  月光やこの淋しさのあるかぎり   『森の螢』

生は死へむかう淋しさをひしひしと。

  月おぼろ人の記憶の中に吾    『森の螢』

高校の同窓会。銀座は朧月。「放課後の教室であなたはこう言った」と鮮明に話しはじめるD女史。

  スーパームーン父に言葉が戻る   『森の螢』

退院後、口数の減った父が急に以前のように語り始めた。折しも、地球に最接近した名月の力かもと思わせた。

  モナリザの青さ増したる良夜かな   『森の螢』

  名月や巴里街頭に眠るひと      『森の螢』

再会のモナ・リザ。廻りめぐったルーブル美術館の窓は、いつしか十五夜の景。

パリに遊学中の子の下宿先からも、名月を仰いだ。向かいのアパートの曲がり角に、二人の路上生活者がいて、いつもそこを通るときに気がかりだった。今宵は満月の石畳に寝入る黒い姿。

蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」を思い出した。蕪村から二百年もたった現代でも、いずこの国にもある貧困。貧困の問題解決にはほど遠い、俳句の世界に浸った半生を、申し訳なくも思う望の夜であった。

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