Anti-war HAIKU

                          Satomi Natori (Haiku poet)

For a while

I look up at an autumn butterfly

at the epicenter        

                                 Satomi Natori

A white butterfly suddenly flew up into the blue sky. Its afterimage still remains in my mind. I wrote this haiku in a haiku notebook during my first visit to Nagasaki at the age of 27.

In 2022, this haiku was published in the high school Japanese language textbooks “New Language and Culture” and “Selected Language and Culture.” The notice of its publication came to me shortly before the start of the coronavirus epidemic. It was before the Ministry of …

『未来へつなぐ想い わたしたちの大磯の歴史』

この書籍は、風光明媚な大磯のゆたかな歴史や文化を、解説、エッセイ、写真をふんだんに使い、つぶさに紹介されている豪華版。

さながら大磯の百科事典のようにずっしりと美しい本です。

この本は、大磯町が発行し、大磯町の学生たちに配布されます。

この本の購入希望者が、配布前から殺到し、

大磯城山公園内の大磯郷土資料館で販売されるそうです。

 

 

わたしは「鴫立庵まで」というエッセイを寄稿しました。

ご存じのように、鴫立庵は三大俳諧道場のひとつ。茅葺き屋根の趣深いお座敷とたくさんの句碑がお庭にあります。

大磯の鴫立庵を訪ね、わたしは、いろいろな気づきに恵まれました。

   

 

初日

初日を毎年拝しています。

今年の人出はいつもより、にぎやかでした。

あかるい方向へ向かう一年になりますように。

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元旦から作り始めた新しいブログです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

わが家の山桜

わが家の濡縁の端に一本の山桜がある。鳥が実を運んだのか、自生した実生の桜である。狭庭の光を求めるように、するすると伸びた幼木は、庭の真ん中に奔放に枝をひろげる若木となった。ただ、かなしいことに、肝心の桜が咲かなかった。冬芽があらわれると、桜の蕾かと毎年期待するのだけれど、若葉が茂るばかり。いつまでも葉を楽しむだけの桜だった。

 ひかりそむ櫻紅葉や朝ごはん   里美『森の螢』

訪ねて来た義父が「家に近すぎるな」とこの桜に驚いていた。桜の根が家の基礎を押しているかもしれないという。桜は青々とリビングの窓を隠すように茂り、近所からの目隠しになり、私にはありがたい木となった。

あるとき、この桜のむこうから、子供を叱る若いお母さんの声がした。どきりとする。私にもそんなことがあったと思い出す。姉妹育ちの私には、男の子は未知なる存在で、反抗期に入った息子には戸惑った。私の悪戦苦闘をこの桜は聴いていたにちがいない。

ようやくその桜に花が咲いたのは、枝が二階に届くほどに生長し、息子が大学に合格した三月だった。白々と大ぶりな花びらの桜が二輪、ささやかな祝福のようにひらいた。樹齢十三年で、花を咲かせたのだ。この桜はまばらな花と同時に若葉もひらく、山桜だとわかった。以来、花の数は少しずつ増している。

この山桜の花のかたちから、山桜のルーツが推測できた。近くの里山の山桜に類似の桜花を見つけた。幹が根元で枝分かれしている姿も似ていた。きっとこの木の子孫ではと仰いだ。

その里山の桜も年々生長し、遠目に見ると、小さな花の山になる。樹齢百年といわれる桜の大樹もある。大卒で就職する息子が家を出る前日、私は彼とその桜大樹を見上げた。彼には言えなかったけれど、この大樹の桜のように逞しい未来をと祈っていた。

 初出勤実生の櫻ひらきけり    里美『森の螢』


       

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停戦と眠り

しとしと雨の日が続く。まさに菜種梅雨。
つきあたりの畑に二列の菜の花。黄色がこころをぽっと明るくしてくれる。
雨がやんで、
青空がひろがると、
菜の花の黄色は、ウクライナ国旗の黄色となり、途端に悲しい色となる。

1870年の普仏戦争で、首都防衛戦に加わったマネは、「Civil War」という題名のデッサンを描いた。メトロポリタン美術館に所蔵される。

戦争に色を重ねることは、マネにとって、拒絶したいこと、
許しがたいことだったのだろう。怒りと悲しみのモノクロームである。

一刻も早く、停戦になり、誰もが、枕にゆったりと安眠できる日をと祈る日々がつづく。

 
  停戦の禱りをけふも菜種梅雨  里美

  菜種梅雨モノクロームの戦争画

  月おぼろ戦争おぼろ人おぼろ

           
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「停戦」と題して、『俳壇』5月号に六句寄稿した。

「眠り」をテーマに『NHK俳句』5月号にエッセイと十五句の鑑賞文を寄稿した。

        
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わたしの一句が教科書に

新学期。手にした、新しく、ぴーんと張りつめた国語の教科書をひらいて、わくわくして読んだ昔。

その学年年齢にふさわしい作品が選ばれているからだろう。どの作品からも、文学のエッセンスがふわふわ漂ってきて、幼いながらにうっとりと読んだ。

教科書の日本の文学に触れつつ、学びつつ、子供の心に、日本人としてのアイデンティティが自ずと形成されていったような気がする。

 しばらくは秋蝶仰ぐ爆心地     名取里美

この一句が、高等学校の国語教科書『精選言語文化』と『新編言語文化』に掲載された。令和4年から使用する教科書である。

ほんとうにびっくり、掲載は面映ゆい。

27歳のとき、はじめて訪れた長崎で詠んだ一句だった。清々しい青空がひろがる長崎の街を歩いた。

この句を句集『あかり』に掲載したのが、2000年。

2022年の1月末の今や、ウクライナで緊張が高まっている。恐ろしいほどに兵器が進歩した現在である。

小さな島国の一市民の私は、ただただ、外交による平和をねがうばかりである。つつましく俳句のこころの花火を上げるばかりである。

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月を仰ぐ

ささやかな人生の或る時を俳句に詠む。俳句に詠んだおかげで、その或る時が、後々、映画のように私には甦ってくる。

月を仰いだ私の或る時を辿ってみる。

  照る月の胎児に腹を蹴られけり  『あかり』

流産、早産の危機を乗り越えたときに詠んだ句。月を詠もうと庭で月を仰いでいるとき、膨らんだお腹を胎児にぽんと蹴られた。

胎児は月光を感じるのだろうか。出産はやはり満月の日だった。その子も無事生まれれば、

  庭先の子供は月を見て飽かず   『あかり』

幼い目にも、月の光は不思議に見えたのであろう。いつまでも月を見上げる二歳児に。

  父母の十六夜の手をひく子かな   『あかり』

私は句会があると、子供を実家に預けて出かけた。

十六夜も上がり、子供を迎えに行くと、子供がわたしたち夫婦の手を早く帰ろうと云わんばかりに引っ張った。幼心の寂しさを感じた。

時は飛んで、私も働き盛りの中年になれば、

  月光やこの淋しさのあるかぎり   『森の螢』

生は死へむかう淋しさをひしひしと。

  月おぼろ人の記憶の中に吾    『森の螢』

高校の同窓会。銀座は朧月。「放課後の教室であなたはこう言った」と鮮明に話しはじめるD女史。

  スーパームーン父に言葉が戻る   『森の螢』

退院後、口数の減った父が急に以前のように語り始めた。折しも、地球に最接近した名月の力かもと思わせた。

  モナリザの青さ増したる良夜かな   『森の螢』

  名月や巴里街頭に眠るひと      『森の螢』

再会のモナ・リザ。廻りめぐったルーブル美術館の窓は、いつしか十五夜の景。

パリに遊学中の子の下宿先からも、名月を仰いだ。向かいのアパートの曲がり角に、二人の路上生活者がいて、いつもそこを通るときに気がかりだった。今宵は満月の石畳に寝入る黒い姿。

蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」を思い出した。蕪村から二百年もたった現代でも、いずこの国にもある貧困。貧困の問題解決にはほど遠い、俳句の世界に浸った半生を、申し訳なくも思う望の夜であった。

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日本文藝家協会推薦入会

ようやく梅雨入り、と思った日に、大きな封書が届きました。

日本文藝家協会 理事長 林 真理子氏からで、推薦入会のお勧めでした。

推薦理事のお名前に俳人の大串 章氏と歌人の篠 弘氏のお名前が記載されていました。

日本文藝家協会の名前は、昔から見聞していましたから、実体はよく知らないけれど憧れていた自分に気づきました。

先日、NHKに出演の林 真理子氏のトークから、作家たるパワーに圧倒された瞬間を思い出しながら、ありがたく、入会の申し込み書を書きました。

なにかいいことあるかしら。

ワクチン接種券も来ていないのに。

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読売新聞 俳句題詠「慈雨」

昨日、6月11日の読売新聞夕刊の2面に、「慈雨」をテーマにした五句を寄稿しました。

走り梅雨のような日を選んで、久々に雨に濡れながら吟行しました。

締切日まで、晴れの日の方が多く、雨の句に恵まれませんでしたが、ある雨の晩、出歩くと、ふわっと飛んできた鳥が電線に止まりました。なんと、まん丸い頭の青葉木菟のシルエット!初めて見た青葉木菟でした。すぐに飛び立ってしまいましたけれど。

まだ、青葉木菟の声は聞こえてきません。。。

歌人の時田則雄先生の作品も掲載です。読売新聞夕刊をお読みいただければ、幸いです。

いよいよ梅雨入りでしょうか。

みなさまどうぞご自愛でくださいませ。

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湖畔まで 角川『俳句』5月号

遅ればせながら、この号に拙句12句を寄稿しました。

原稿締切は3月19日だったのですが、このコロナ禍ですから、遠出もできず、近所を吟行してあれこれ作句していました。これでいいかなあと、拙句をまとめていた3月11日、突然、義父の訃報が。急きょ、葬儀のために諏訪まで出かけました。

義父は諏訪湖のほとりの施設に暮らしていました。そばに居てほしいと願いましたが、自らの意志で都内から諏訪へと移転していました。フランス文学者で都立大教授でした。東大ではバイオリンを抱えた星新一氏をよく見かけたという享年94歳でした。

義父の話で俳句にまつわる興味深いことがありました。義父の後輩の平井照敏氏に、義父が青山短大の職を紹介すると、平井氏はそこで加藤楸邨氏と出会い、詩から俳句へと転向されたということでした。

私はかつて、平井照敏氏の作品を鑑賞したことがあり、ご挨拶に義父の話をすると平井先生は大層驚かれて、お手紙をいただいたことがありました。

喪のかなしみもさることながら、私の心残りは、義父に作句をすすめられなかったことです。諏訪湖のほとりで俳句を始めていたら、義父はさらに充実した余生を楽しめたのでは・・・と思う後悔です。 

葬儀のあとで、諏訪湖で拙句を詠み、結局その拙句を12句にまとめて編集部に送りました。

幾度も訪ねた諏訪湖でしたが、めずらしくその日は、雨の諏訪湖でした。…