哀悼

写真は、この一月で閉館となる、神奈川県立近代美術館の鎌倉館。
1月14日、「屋根」同人の高田(遊田)礼子さまが旅立たれました。
山口青邨門下の俳人で、私はこの方のお導きがなければ、俳句から遠ざかっていたかもしれません。

大学3年生の私が初めて青邨先生ご指導の「白塔会」に参加したときに、「うちで、黒田杏子先生の勉強句会をしているから、いらっしゃい」と大学の大先輩の礼子さまからお誘いをいただきました。
この句会が「木の椅子会」でした。礼子さまは、ご自宅の和室を開放され、句会の魅力あふれる場を献身的にお作りになられていました。
東京女子大の「白塔会」の予備校的性格と、黒田先生は私の句集『螢の木』の序文に書かれていらっしゃいましたが、学生と若いOG数名の家庭的な句会でした。礼子さま手書きのプリントの句会報が配られ、私は俳句の楽しさに引き込まれていきました。
この会に東大「原生林」の学生が参加されるようになり、のちのち「木の椅子会」は発展していきました。
現在の俳壇の中核を担う、当時の若き方々が集まる句会になっていったのです。

高田礼子さまと黒田杏子先生は、私を含め、年若い俳人を育ててくださった大恩人なのです。

不思議なことがありました。
13日の晩に、私は珍しく部屋の片づけをしていました。
翌日、礼子さまの訃報を知り、かなしみ落胆しているとき、昨晩の片づけものの中から、『春雪ージュニア俳句ー』(昭和63年9月)という冊子が一冊出てきたのです。それは、礼子さまがお一人で運営、編集されていた春雪ジュニア俳句会の機関誌でした。
その中に、私が「螢の木・抄」として、第一句集の中からの10句を寄稿していました。

このことを、礼子さまのお嬢様の桃子さんにお話すると、「母がみんなのところに挨拶しにいったんですね」とおっしゃっていました。
その機関誌には、高田礼子さまが、「宮沢賢治のこと」として文章を書かれています。
少し、引用させていただきます。

 後に賢治は《私に詩眼を開いて下さったのは先生の童話です。私の童話は根本は法華経から来ていますけれ共、先生の童話の息のすることがお分かりになりませんか。》と八木(賢治の小学校三年の担任教師)に語っています。この新進の先生は又、子供達を外に連れ出して野外教育をほどこし、疲れると菓子などを買って食べさせ遊びながら共に学ぶ、ということを教えました。賢治が後に農学校の先生になった時の授業ぶりは、八木先生によく似ていたと云われています。

高田礼子さまは、この八木先生、並びに宮沢賢治の先生ぶりに似ていらしたと、私には思えてきました。
とてもお優しく、繊細かつ行動的な文学者、お母様でいらっしゃいました。

礼子さま、たくさんのあたたかなご指導を賜りまして誠にありがとうございました。
どうぞお安らかに、ご家族や私たちのことお見守りくださいませ。

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