小誌「あかり」に参加してくれたウクライナのヴラディスラヴァ・シモノヴァさん。
「あかり」2号に俳句10句とエッセイを発表されました。(和訳はわたし)
7月に送ったので、配達までひと月以上かかりました。戦渦のなかを郵送してくださった方々に感謝です。シモノヴァさんも喜んでくださって、わたしもうれしいです。
下のサイトは、シモノヴァさんのFB投稿です。
https://www.facebook.com/share/p/QeJx4d9wPRQA8dp5/?mibextid=WC7FNe…
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小誌「あかり」に参加してくれたウクライナのヴラディスラヴァ・シモノヴァさん。
「あかり」2号に俳句10句とエッセイを発表されました。(和訳はわたし)
7月に送ったので、配達までひと月以上かかりました。戦渦のなかを郵送してくださった方々に感謝です。シモノヴァさんも喜んでくださって、わたしもうれしいです。
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浅沼 璞氏の「俳句における季語の境界―無季俳句からの照射」(『江古田文学』116)に、小誌「あかり」の創刊号に掲載したヴラディスラバ・シモノヴァさんの俳句とエッセイが引用されました。
浅沼氏の論は、新興俳句運動における、季題季語を超える新たな「題」「語」の創出としての「戦争」という語についての考察が展開されていました。シモノヴァさんの戦争俳句に注目されたのです。
シモノヴァさんの戦争の作品に、季語のない俳句はありますけれど、季語を入れた戦争の俳句もあります。季語のない作品は、私なりに彼女の作品から季語のように解釈して季語を入れる翻訳は可能でしたけれど、作品を忠実に翻訳いたしました。彼女は、季語を入れる余地のない作品のときに、季語を入れないのかしら。ご本人は、どのようにお考えなのか伺ってみたいですね。
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年2回発行の「あかり」の第2号をようやく発行いたしました。
「あかり」2号には、あかり俳句会のみなさまの俳句とエッセイの力作をはじめ、
作家の森 詠先生による黒田杏子先生とのご交流のエッセイ、
十三回忌の眞鍋呉夫先生特集、
「あなたのHAIKU」として Ms.Abigail Friedman から俳句とエッセイ、
俳句の教育現場のレポート、
作家の森 千春先生のエッセイなど盛りだくさんです。
ウクライナの Ms.Vladislava Simonova は創刊号に続き、俳句とエッセイを送ってくれました。
私も「晩年の眞鍋呉夫先生」などをあらたに書きました。
一刊をすべてPDFで、自宅編集です。表紙はフランス在住の息子がイラストレータで。
文字化けと闘いながら、最後にみごと負けて誤字があり、反省しています。心よりお詫び申し上げます。
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「俳句界」7月号にセレクション結社として、「あかり」を3ページにわたってご紹介いただきました。あかり俳句会のコンセプトなどをお伝えしています。
編集長の松本佳子様が、撮影してくださったカラー写真も6ページ目にあります。
北鎌倉の浄智寺で撮影。五月の木漏れ日が綺麗なこと!
「今日が一番若い日」といったのは、コシノジュンコさんでしたかしら。
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「俳句四季」7月号の〈今月の華〉という頁に、俳句とエッセイと写真をご掲載いただきました。
西井洋子社長が自らカメラをかっこよく構えて撮影してくださったのです。
北鎌倉の浄智寺で。ちょうど、ほととぎすが鳴き始めて、うれしいと思った笑顔かもしれません。
西井社長はプロ級!実物以上に撮れているかも。
エッセイは思い出ばかり、楽しく書かせていただきました。
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「俳壇」5月号(本阿弥書店)の「名園を歩く」に拙句と拙文を寄稿いたしました。
「名園」として、北鎌倉の円覚寺さまを、ご紹介いたしました。
円覚寺さまには、不思議なご縁もあります。
かつていただいた駿河梅花文学賞を主催されたのは、沼津の大中寺さまですが、臨済宗円覚寺派でした。大中寺で、横田南嶺管長さまに二度、お目にかかりました。法話を賜り、お茶席もご一緒させていただきました。
そして、亡父の小さな墓を円覚寺さまにお守りいただくことになりました。
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「俳句四季」3月号に、続・続令和の新創刊として、小誌「あかり」をご紹介してくださった。
4月に「あかり」刊行記念会を北鎌倉で開催する。
20数年のおつきあいではじめてお会いする会員様、富山から駆けつけてくださる会員様もおられ、今からどきどきしている。
食事と句会と吟行を楽しむ一日となる。
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あかり俳句会は、毎月のご投句を、月刊文芸誌『かまくら春秋』の「かまくら春秋あかり俳壇」へお願いしております。わたし、名取里美が選者をつとめます。
「かまくら春秋あかり俳壇」には、あかり俳句会の会員様以外ももちろんご投稿できます。
文芸誌の中の俳壇をめざします。
『かまくら春秋』一月号には、あかり俳壇の招待席に、前田万葉カトリック教会枢機卿の一句も掲載させていただきました。
ふるって、ご投稿くださいませ。
投稿規定 自作未発表の作品をおひとり様ハガキ一枚2句まで。
宛先 〒248-0032 鎌倉市津554-5「かまくら春秋あかり俳壇」
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毎日新聞出版より俳句αあるふぁ編集部編の『暮らしの歳時記365日』が刊行されました。
暮らしの中で息づく季語を詠んだ俳句と、その瑞々しい鑑賞文と、その季語のうつくしい写真が、日本のゆたかさを伝えてくれる一書です。
そう、海外の方もよろこばれるかも。
日本の文化を海外にアピールできる高著だと思います。
私の一句もご掲載いただき、ありがとうございます。
まつすぐに汐風とほる茅の輪かな 里美
この句は、鎌倉の鶴岡八幡宮の茅の輪を詠みました。
思い出深い茅の輪です。
あるときは、妊婦で、幼子の手をひいていたり。
あるときは、知人の病いを心配に思ったり。
その病いの方に、鶴岡八幡宮の茅の輪のかたちのお守りを買ったことがありました。
でも、その方の信仰を知らず、差し上げなかったのですが、
その方は、後に、なんと鶴岡八幡宮の墓地に入られたのでした。
颯爽としたすてきな俳人でした。
雪の名句をたくさん残されました。
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黒田杏子先生から、またお電話があるような気がしてならない。
杏子先生を失ったかなしみは、これからますます深くなるばかりであろう。
追悼の気持ちをこめて、2022年に「藍生」に掲載した拙文を再掲載する。
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「藍生」とわたし
「皆さんは詩人なんですよ」と山口青邨先生は大学内の句会で学生の斎藤杏子女史たちに語りかけたそうだ。
本棚に並ぶ「藍生」のどの号を開いても、すてきな俳句がぎっしり。こころが弾む。「藍生」のみなさまはみなすてきな俳人である。このすべての豊かな出会いは黒田杏子先生につながる。
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大学三年の十九歳のとき、私は杏子先生に出会った。以来、ほぼ毎月、句座を共にすることができた果報者である。若い人生に俳句がすべりこみ、ふくらんできて私は葛藤することになった。キャリアウーマンかつ文芸をすることが私の理想像で、杏子先生はまさに理想像そのものであった。はたして私にできるのか、悩んだ。親や外務省の受験勉強仲間から諭された。苦しかったが、結局、よし、俳句をやるぞと決意して大学を卒業した。
山口青邨先生ご指導の「白塔会」に学び、「夏草」にも学び投句した。牧羊社の「牧羊集」や詩誌の「ラ・メール俳壇」にも投句した。思いがけなく黒田杏子先生の序文第一号を賜り、句集『螢の木』を刊行した。「夏草」終刊後、「藍生」に入会したのである。
もう、二十七年も前なのだ。「藍生」創刊のはじめての例会に参加したあとに、私はあきらめかけた妊娠に気づいた。「藍生」でがんばろうと張り切っていたのに、切迫流産で安静となる。落胆した私を力づけたのが、「藍生集」の選句欄であった。句評を賜り、どれほど勇気づけられたことだろう。育んでいただいたことだろう。
創刊から三百二十九回以上もご多忙の中、選句作業をなさった杏子先生に心より敬意を表したい。藍生集のご選評は俳句の、ひいては人生の学びの書であった。杏子先生の作品、句友の俳句作品に心を洗われ続けている。
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出産予定日間近の私は、親となる前の最後の一人吟行として江ノ島に小舟で渡った。我ながら大胆。産気づかなくてよかった。そんなエピソードを「藍生」に綴ったこともなつかしい。私は文章を書くことも好きなので、書く機会は楽しく書かせていただき幸いだった。
私は、杏子先生の文章の昔からのファンで、先生のご選評、エッセイを読むことを毎月楽しみにしている。藍生のみなさまのエッセイも味わい深く堪能している。
黒田杏子先生は、博報堂で培った名プロデューサーであり名編集者である。「藍生」の誌面のうつくしさは群を抜いていると外部のプロは絶賛していた。「藍生」の編集や事務局のお仕事をなさってくださっている方々にも感謝を申し上げたい。私も今後お手伝いに伺おうと思う。
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杏子先生ご企画の「藍生」の吟行句会のプログラムもすばらしく。私は幼子を母に預けてできるかぎり参加した。各地の名勝、聖地へ吟行句会ができたことは、かけがえのない旅であった。
ゆっくり吟行した羽黒山。夜更けに草に寝転んでみた流れ星。斎館に法螺貝が鳴り響き、心地よい風が吹き渡った大広間の大句会。あの清々しさは忘れがたい。
高野山の空海の霊廟で満行結願の杏子先生とともに正座して拝んだ灯明もこころに灯る。
「坂東吟行」は、数回、幹事として地元の「海燕の会」のみなさまと協力して貴重な勉強の場となった。鎌倉のひらきゆく桜をじっと見続けていらした杏子先生。
一介の老女一塊の山櫻 杏子
の名句誕生のときだった。
「海燕の会」は、鎌倉近辺や遠出の吟行をして楽しく句会を重ねて十八年になる。
幹事として「いざ、鎌倉 藍生のつどい」を準備中の時だ。鎌倉で「海燕の会」の句会の最中、東日本大震災が発生した。電車が止まり、市役所泊りの仲間もいて句会の危うさを痛感した。震災にふるえつつ、つどいのために電卓をたたき続け、プランを練った。杏子先生ご提案による、ソウルの金理惠さんの韓国舞踊は好評でありがたかった。大会運営の準備の大変さを学び、皆で協力して仕事をする醍醐味を久々に味わった。大会最終日、みなさまが鎌倉プリンスホテルを去り、ひとり最後の会計の支払いをしていると、浅井さんご夫妻がロビーに現れ、愛車で拙宅まで送ってくださるとおっしゃる。驚きうれしかったことを思い出す。
杏子先生の百観音巡礼吟行は、二人の子育て期と重なり、存分に参加できなかった残念な思いもあるが、その他の吟行句会の豊かな思い出がたくさんある。
杏子先生本当にありがとうございます。杏子先生の句に学び句会に学び「藍生」に学び、今の私があります。三十七年間も、先生の俳句魂がわたしの俳句魂を育ててくださいました。感謝の気持ちがいっぱいで涙がこぼれそう。これからも青邨先生、杏子先生と「藍生」に学び続けてゆく所存です。
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