わが家の濡縁の端に一本の山桜がある。鳥が実を運んだのか、自生した実生の桜である。狭庭の光を求めるように、するすると伸びた幼木は、庭の真ん中に奔放に枝をひろげる若木となった。ただ、かなしいことに、肝心の桜が咲かなかった。冬芽があらわれると、桜の蕾かと毎年期待するのだけれど、若葉が茂るばかり。いつまでも葉を楽しむだけの桜だった。
ひかりそむ櫻紅葉や朝ごはん 里美『森の螢』
訪ねて来た義父が「家に近すぎるな」とこの桜に驚いていた。桜の根が家の基礎を押しているかもしれないという。桜は青々とリビングの窓を隠すように茂り、近所からの目隠しになり、私にはありがたい木となった。
あるとき、この桜のむこうから、子供を叱る若いお母さんの声がした。どきりとする。私にもそんなことがあったと思い出す。姉妹育ちの私には、男の子は未知なる存在で、反抗期に入った息子には戸惑った。私の悪戦苦闘をこの桜は聴いていたにちがいない。
ようやくその桜に花が咲いたのは、枝が二階に届くほどに生長し、息子が大学に合格した三月だった。白々と大ぶりな花びらの桜が二輪、ささやかな祝福のようにひらいた。樹齢十三年で、花を咲かせたのだ。この桜はまばらな花と同時に若葉もひらく、山桜だとわかった。以来、花の数は少しずつ増している。
この山桜の花のかたちから、山桜のルーツが推測できた。近くの里山の山桜に類似の桜花を見つけた。幹が根元で枝分かれしている姿も似ていた。きっとこの木の子孫ではと仰いだ。
その里山の桜も年々生長し、遠目に見ると、小さな花の山になる。樹齢百年といわれる桜の大樹もある。大卒で就職する息子が家を出る前日、私は彼とその桜大樹を見上げた。彼には言えなかったけれど、この大樹の桜のように逞しい未来をと祈っていた。
初出勤実生の櫻ひらきけり 里美『森の螢』
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